「石泉荘」の庭の中央を新発田(しばた)川が流れ、昭和の初期まで筏(いかだ)流しも行われたというのどかな時を刻んできました。銀閣寺や京の名園修理を手がけた田中泰阿弥師が江戸時代の名残をとどめた石組は美事であると記しているように、今もなお昔のすがたをそのままに残しております。
山ありて やまおもしろく 瀧ありて
たきおもしろく 見ゆる庭かな
この歌は、初代新発田町長・原宏平氏(歌人としても著名)が、大正十年八十四才の時に、ここを訪れて読まれた歌で、題して「石泉荘の庭を見て」とあることで、名付けられました。
ここは、かつて新発田藩時代には、輪乗場、大矢場として藩士の調練が行われたところで、門前の道路はその名残と言われております。近くには新発田藩主の下屋敷「清水谷御殿」(現在の清水園)があり、新発田の歴史の一端をみることができます。
住宅部分と川を挟み建っている離れ座敷。
この場所にはかつて「花菱」という料亭があったが、明治37年6月に火災があり消失。他から現在の建物を移して業を続けていたがまもなく他所へ移ってしまう。その後、新津で製油を業としていた石崎家所有となり別邸として使われるようになった。
今では茶室と呼ばれているこの建物は、元々は別の場所にあった新発田藩医の隠居屋敷で、日清戦争の際にここへ移されたといわれている。当時のままの土壁が歴史を感じさせる。
庭園の中心を滔々と流れる新発田川。私有地の中を公の川が流れている大変希少な風景である。
昭和の初期までは材木を運ぶための筏(いかだ)流しも行われていたという。
昔は住宅部分と離れ座敷を繋ぐ廊下が無かったため、石橋を渡ることで建物を行き来していた。
時は流れ、渡り廊下ができ、その役目を終えた今も石橋はそこに在り続けている。
滝の落水音が庭園内に心地よく響く。
昔は川の水がそのまま滝の水となり流れ落ちていたという。
川戸と呼ばれる、川へ下りるための階段。周辺にも複数存在していたが現在は無くなってしまった所も多い。
石泉荘の川戸は今もなお昔のまま残されている。